お風呂場で大声を出したので、怪我をしたと思ったのだろう。ローズマリーが慌ててやってきた。
「どうなすったの?! 火傷?」 「すみません! なんでもないです。あの……ローズマリーさん、この時間まだ空いてますか?」 「え? ええ……次に来るお客様は三時間後ですから」 お風呂場の引き戸にしっかり掴まり、こちらを覗き込むローズマリー。 「私キャンセルします」 「わかっているわよ、レベッカさん。安心して、お金は取らないから」 「いいえ、キャンセルをキャンセルします!」 「はぁ?……キャンセルをキャンセル……ええと、つまりそれは……」 「予約の通りにやってください。湯船に入ってからマッサージしてもらいたいです。ごめんなさい、わがままなことばっかり言って。できますか?」 きっぱりと言った。やっぱりアレックスの言ってること偏見だもの。 「もちろん〜。お時間は平気なの? 湯船に入らないコースもあるのよ」 「大丈夫です。時間がなくてキャンセルしたわけじゃないので」 「……よござんす。予定通り行いましょう」 よござんす? 横長の浴槽は想像より浅く、寝そべって入るタイプだった。お湯が少なくて済むので、これはとても工夫されてるわ。そういえば街の大浴場にも似たのがあったかも。 しっかり体を洗ってから、浴槽に入る。枕の形をした石が、首の根元に当たってすごく気持ちがいい。 お湯を沸かしてくれていたことに心から感謝すると、ローズマリーはシルバーマウンテンの溶岩を手に入れているから大丈夫と言った。 大昔に噴火したシルバーマウンテンの溶岩は一度熱すると水に入れても三日は冷めない。高価だがお湯を作り出すことも部屋を暖かくすることもできるので、かなり重宝されていた。 お湯揺らして全身を撫でるように体をさすり、そのまま顔も埋めてしまった。 ミモザかローズ、どちらのオイルがいいか聞かれ、ミモザと答えた。 ああ……ミモザで正解だったわ。 「いい香り……アレックス、こーゆーのは嫌いそうだわね……」 ……はっ、いかんいかん! 無意識に呟いている自分が怖い。またアレックスのことを考えてた。贅沢な時間がもったいないわ。 ぬるめのお風呂から出ると、タオル地の肩が丸出しのビスチェのワンピースを着る。またこれもかわいい。 「わぁ、かわいいわ! 天使みたいね」 もう、ローズマリーさんたら営業トークが上手すぎる! でも嫌いじゃない。 マッサージが始まると、今朝のアレックスとの喧嘩のこともすぐ聞いてもらった。私の人見知りも、涙と汗で流れてくれたみたい。 でもアレックスの名前だけは言わないよう気をつけた。アレックスは街では男として暮らしているみたいだし。 それに今朝、喧嘩をしてわかったのだけど、プライベートに介入する仕事を毛嫌いしている。これは多分、同族嫌悪っていうのかな? アレックスもローズマリーさんも自分の特技を活かして生業としているもの。 アレックスは一応探偵(ペット専門)だから相手を疑ってかかるのね。だとしても腹が立つわ。 「上に住んでるその子、レベッカのことが大好きなのね」 「そんなこと……あっ……」 「痛かったかしら?」 「すごく今、腰のところ気持ちよかったんで」 「そこが凝っているのよ。力仕事をしてるわね」 「そっ……あ……野蛮なその子がここへ来てくれたら、ローズマリーさんのサロンは怪しい店じゃないってわかるのに」 「ローズマリーって呼び捨てでいいわよ。そうねぇ。今度一緒に来たらいいわ。足湯に浸かりながらお茶しましょう。お金はいらないわ」 うっ……腰から手がするりと下りて、お尻の側面から腿まで強めに押されて、びっくりした。こんなところも触るんだ。でもすごく気持ちいい。 「お尻の筋肉、かなり凝ってるから誰かにマッサージしてもらえるといいわねぇ」 「お尻……ですか? あっ……確かに気持ちいいです」 「お尻って言っても上の方。腰のすぐ下よ。その子にやってもらったら?」 「いやいや! それは私が嫌です」 アレックスにお尻を揉んでもらうなんて嫌よ……恥ずかしすぎる! 私は話を元に戻した。 「……あ、その子、ここに来てもらえるかどうか……花とか香水とか香りがするのが嫌いなんです。鼻が効き過ぎるんですかね。ハーブティーは飲んでくれるけど。あんまり好きではないみたいですけど」 「女の子なのに変わってるのねえ」 「前に花瓶に花を入れて置いたら、洒落臭いって怒りました。しゃらくさいってなんですか!? 花瓶を割ろうとしたんです。ちょっとありえないですよね」 「なにか嫌な思い出があるのかしら?」 「そんな感じではなくて……それに、私のことは世間知らずだと思ってるんです」 「心配なのねぇ。あなたかわいいもの」 「まさか! 言われたことないです。髪が変とか、服装がダサいとか言われるし。目も小さいとかなんとか」 「それは……おほほ。仲が良いのね。あら、肩と腕がパンパンだわ。なんのお仕事しているの? 聞いていいかしら?」 「……パン屋と」 「だから肩がパンパンなのね。パン屋なだけに」 「…………」 なんて反応すればいいの? 「あ、あと召使いです……」 「え? めし? 飯使う? レストランかしら?」 ローズマリーさん……天然? 見た目と違ってとってもキュート……好きになりそう。 身体中を揉みほぐされていると、気持ち良すぎて、だんだんと眠くなってきた。 完全に私は、彼女のペースにハマってしまった。気づくとビスチェはいつの間にか下りていて…………腰回りのみ布を纏っているだけ。 うつ伏せだから構わないけど、なんだか恥ずかしい………。アレックスが言うのもわかるかもしれない。確かに…………無防備。 ナナと歩いてる私……毎日の日課。 いつもの仕事の帰り道。 「サロンねぇ……雰囲気に飲まれて腕はたいしたことなかったっていうのが、一番がっかりよ。マッサージはどうなの? 上手かった?」 あれ? 私ここまでナナに言わないわ。でも確かに心で思っていた…………夢なの? ナナがうっとりとした顔で言う。 「あんまり詳しく覚えてないのよね」 「え?」 「上手く言えないわ。最後は気持ちよくって寝てたし。凝ってるところはもちろん的確に揉んでくれるわよ……もうなんだか夢のような時間よ」 ナナったら影響受けすぎ……しかも流されやすいから心配だわ……なんて思ったのに……あぁ、私も寝てるし。なんだか赤ちゃんになったみたい。ローズマリーの細くて長い指が、丁寧に全身を滑っていく。 私は孤児院育ちだけど、ローズマリーの赤ちゃんだったら毎日いい香りに包まれて幸せなんじゃないかしら? 気持ちいい。温かくて柔らかくて……ずっとこのままでいたい- 「レベッカ、起きて〜。終わりましたよ」 「うっ……んん」 ゆっくりと、なんの疑問も持たずにそのまま起き上がる。自室のベッドと勘違いした私は、それより狭くて高い位置で寝ていたため、バランスを崩した。 「あっ……」 「レベッカ!……気をつけて」 前のめりになった私を、すかさずローズマリーが前から支えてくれた。 ほっとしたのも束の間、服がずり落ちているのに気づく。裸の上半身が丸見え。胸もあらわだった。 「キャッ」 恥ずかしくて胸を隠そうしたら、さらに台から落ちそうになって、抱きつくようにローズマリーに全てを預けてしまった。 「大丈夫?……レベッカ?」 「すすす、すいません。なんだか私……」 オイルでぬるぬるの私を受け止めたから、ローズマリーさんだってぬるぬるだろう……。 うぅ……なんだかごめんなさい。 その後のことはよく覚えていない。 ***** 夜の九時- 昼間盛況な商店街でも、夕飯時を過ぎたこの時間になると早々と闇が訪れる。 商店街の奥まった路地裏にある小さな家。 扉に付けられていたウインドチャイムが吹き飛んだ。甲高い、割れるような音が響き渡り、勢いよく扉が閉まる。 「……てめえか」 血の気の多い敵意剥き出しの男……ではなく- 「物騒だな。こんな時間に鍵もかけない非常識な女は。いつも開いてんのか?」 ゆるくまとめた髪はもう解いており、胸元が大きく開いた紫のガウンを着ているローズマリーは神秘的だった。 「いいえ。きっちり閉めてます」 「今、開いていただろ?」 アレックスは鼻と口を隠した深緑のスカーフを外し、射抜くような目でローズマリーを見た。顔をしかめ浅い呼吸を繰り返す。 「相容《あいい》れない輩が、ここに突っ込んでくる気配がしたので。扉を壊されたら大変なので、たった今……鍵を開けました」 「…………」 「お噂はかねがね伺っております」 慇懃無礼に言うと、ローズマリーは丁寧にお辞儀をした。 アレックスは逆上して、ローズマリーにさらに近づいた。 「本性を出せ」 荒く息を吐き、ローズマリーに詰め寄る。 「本性もなにもない。私はいつも通り。悲しいのはお客様から頂いたウインドウチャイムが吹き飛んで壊れたこと」 「知り合いがここに来たんだが! ついさっき目を覚ました。ほぼ一日中寝てたんだぞ!」 「レベッカね。彼女、脱水症状になったの。水や紅茶を出しながら施術するのだけれど、実はハプニングがあったのよ。カウンセリングとお茶を飛ばして、すぐ足湯をしたのよね」 「何を言ってる? 薬を盛ったんだろ? 正直に言えよ」 ローズマリーの笑顔が消えた。凍りつくような瞳。 「お黙りなさいな。言っていいことと悪いことがある」 「なんだと? てめえは客を病院送りにするのか?」 「レベッカは水分を取ってくつろいでもらっただけ。逆に体の悪いところを発見し、病院を勧めたお客様は今まで何人もいたけどね。彼女が脱水症状になった原因はあなたにもある。アレックスさん」 アレックスはローズマリーのガウンの襟を荒々しく掴んだ。 「ここで! 具合が悪くなったんだぞ!」 怒りで震えるアレックス。アレックスをじっと見つめるローズマリー。 「彼女はここに来る前も、ここに来てからも隠れて泣いていた。私が思っていた以上にね。相当水分を使ったのね……あなたに拒絶されたからよ」 「拒絶? お前になにがわかる?」 吐き捨てるように言うと、アレックスはローズマリーから手を離した。 「サロンに行くなら、召使いはいらないと言ったのでしょ」 舌打ちをするアレックス。 「あいつ、ベラベラと! 前にも言ったことがある。使えない召使いならいらないと」 「どれだけ酷いことを言っているかおわかり? レベッカはあなたに気を使ってとても疲れているわ……あなたのこと慕っているのよ」 「……お前は何様だ?」 「町の女の子たちを幸せにしたいだけ。私は人を癒す力があるのよ。それを女性たちに使いたい。男たちに翻弄され、女は身も心もボロボロだ」 「……お前…………魔女だな。最近北の国で、魔女が脱走しているだろ?」 ローズマリーはクスッと笑った。 「世間知らずなのはお前のようだね……餓鬼《ガキ》は早く帰って眠りなさい」 「なんだと!」 声を荒げたアレックスはローズマリーに殴りかかろうとした。そのとき- 「痛みを感じる間もなく死んだわ」 アレックスは一瞬で硬直した。じっとローズマリーを見つめる。 「あなたの大事な…………恋人? 恨んでいないわ。だから許しなさい」 「なっ……」 アレックスは後退り、ローズマリーから距離を取った。 「許すのよ…………あなた自身を」 諭すような優しい声。誰にも話したことがない事実を告げられ、アレックスは愕然とした。 最近は自分でも忘れていたことだった。 「お前……何者だ?」 「こっちの台詞。アレックス……お前羽振りがいいようね。先ほど壊したウインドチャイムのお金……明日届けなさいな」 「くっ」 アレックスは深緑のスカーフを口元に戻し、逃げるようにローズマリーのサロンから退散した。 「またのお越しをお待ちしております」 ローズマリーは余裕の微笑みを返した。お風呂場で大声を出したので、怪我をしたと思ったのだろう。ローズマリーが慌ててやってきた。 「どうなすったの?! 火傷?」 「すみません! なんでもないです。あの……ローズマリーさん、この時間まだ空いてますか?」 「え? ええ……次に来るお客様は三時間後ですから」 お風呂場の引き戸にしっかり掴まり、こちらを覗き込むローズマリー。 「私キャンセルします」 「わかっているわよ、レベッカさん。安心して、お金は取らないから」 「いいえ、キャンセルをキャンセルします!」 「はぁ?……キャンセルをキャンセル……ええと、つまりそれは……」 「予約の通りにやってください。湯船に入ってからマッサージしてもらいたいです。ごめんなさい、わがままなことばっかり言って。できますか?」 きっぱりと言った。やっぱりアレックスの言ってること偏見だもの。 「もちろん〜。お時間は平気なの? 湯船に入らないコースもあるのよ」 「大丈夫です。時間がなくてキャンセルしたわけじゃないので」 「……よござんす。予定通り行いましょう」 よござんす? 横長の浴槽は想像より浅く、寝そべって入るタイプだった。お湯が少なくて済むので、これはとても工夫されてるわ。そういえば街の大浴場にも似たのがあったかも。 しっかり体を洗ってから、浴槽に入る。枕の形をした石が、首の根元に当たってすごく気持ちがいい。 お湯を沸かしてくれていたことに心から感謝すると、ローズマリーはシルバーマウンテンの溶岩を手に入れているから大丈夫と言った。 大昔に噴火したシルバーマウンテンの溶岩は一度熱すると水に入れても三日は冷めない。高価だがお湯を作り出すことも部屋を暖かくすることもできるので、かなり重宝されていた。 お湯揺らして全身を撫でるように体をさすり、そのまま顔も埋めてしまった。 ミモザかローズ、どちらのオイルがいいか聞かれ、ミモザと答えた。 ああ……ミモザで正解だったわ。 「いい香り……アレックス、こーゆーのは嫌いそうだわね……」 ……はっ、いかんいかん! 無意識に呟いている自分が怖い。またアレックスのことを考えてた。贅沢な時間がもったいないわ。 ぬるめのお風呂から出ると、タオル地の肩が丸出しのビスチェのワンピースを着る。またこれもかわいい。 「わぁ、かわいいわ! 天使み
そんなに緊張しないで。もっとリラックスするのよ、レベッカ……。 肩の力を抜いて。ほら気持ちいいでしょう? 足首から太ももにかけ、撫でられるような、下から上に這い上がってくるような感覚。 そのまま、背中につうぅと柔らかな圧がかかる。「あ……はい………」 ぞわぞわしていたけど、だんだんと感触が馴染んできた。まるでハチミツをかけられたみたいに、全身が溶けていきそう。 うつ伏せの私は半分意識が飛んでいた。そのまま背中から肩までくるくると触られる。「肩と腕がパンパンだわ。なんのお仕事しているの?」「パン屋と…………あと召使いです」「え? めし? 飯使う?」「召使いです」 「召使い? こんなかわいいお嬢さんが? それは大変ね。どこで召使いを」「ええと……」 無理だ。瞼も脳も閉じてしまう…………。**** 早朝の仕事の準備をしていると、少し汗ばむ季節になっていた。私がこのアパートに来てからもう二ヶ月は経った。 カルバーンに引越して良かったことは、美味しいパン屋で早朝働けたこと。 朝が早過ぎて人手不足なこともあり、短い時間でいいお給料がもらえるのは非常にありがたい。 普通だったら一日働かないともらえない金額が、早朝五時から八時の三時間、半分の時間でもらえるのだ。 それに町の人たちの朝食作るってことは、みんなに生きる糧を作ってるってことだもの。 すごく嬉しい気持ちになる。 そして帰ってきてから少し休憩して、その後はアレックスの手伝いをしている。 こっちの方がストレスは当然溜まるかもしれない。「今日も、あの変人のところに行くの?」 パン屋の同僚、ナナが後ろから背中をつついてきた。彼女はお団子にしていた髪をほどいて、頭を小刻みに振る。 私たちは仕事を終えて、通りを歩いていた。「まぁ……」「ベッキー、あなた人が良すぎるんじゃない? ただ働きなんでしょ?」「ただ? うーん、どうかなぁ」 少なくとも、私のことをベッキーではなく、ちゃんとレベッカって呼んでくれるけど。 アレックスは金銭感覚がおかしいから、そんなにもらえないって額のお金を渡してきたりもする。 そんなこと言ったら、ナナもアレックスのところで働きたいなんて言い出しそうだから絶対に言わないけど。 「ねえ、ベッキー。そういえば、ナイトブロックの奥にお洒落なサロンができ
小さなときから祖母の世話まで押しつけられているなんて、本当に酷い。 「コリーの父親はどこで働いているのかしら?」 私が気になって口を出す。 「父親は商人らしいです。いろいろな町に行くので、あまり家にいなくて寂しいと言ってました。帰ってくると三人でご飯を食べて楽しく過ごしたり、お芝居に連れて行ってもらったりしたと言ってました。私も同じお芝居を見たことがあって、それでコリーとその芝居の真似をして遊んでいました」 「お芝居の真似なんて楽しそう」 私が言うと、黙って聞いていたアレックスが口を開いた。 「子供が見れる芝居は限られていたからな。旅芝居の巡業だろう。旧市街、カラバーン、ヌーンブリッジみたいに順番に回ったんだろう」 「はい。そのお芝居は確かローラと言う女の子が家族と喧嘩をし、家出をしていろいろ不思議な場所に冒険に行くんです」 「聞いたことあるかも……」と私。 「私たちもこの街から出て、どこか素敵な国を冒険したいねとよく二人で言ってました。特にコリーは強く望んでいました。二人だけで暮らしたいと」 「……それは環境のせいなのか」 アレックスが尋ねる。マーゴは頷いた。 「彼の顔に……殴られたような傷があるのに気づいて。よく見ると腕や足にも。転んだにしても、そんなところは怪我しないだろうという所に」 それはまずいわ。私は話しに割って入った。 「それは誰かに知らせたりした?」 アレックスはため息をつく。 「大人に言えるなら苦労しないんだよ」 それはそうだけどー 「二人とも十歳前後なんだぞ。誰かに言うとか考えつかないだろ、バカなのか」 バカってなによ。 「そうなんです。誰かに助けてもらうなど考えられませんでした。慰めたり手当てをすることしかできなくて。彼は内緒で公園に来ていたのでバレたら大変なことになると、私たちは思っていました」 ふいにマーゴの声が上擦った。今にも泣きそうな弱々しい声。 「そして最後に会った日、私たちは……」 マーゴはまるで、罪の告白をこれからするかのよう。 彼女は自分の両の腕をさすりながら、辛そうに話を続けた。 マーゴは深く息を吐いた。 「あの日、コリーは母親に強く打たれたのか、両頬が赤く腫れ上がっていました。足にも小さい傷がたくさんあり、引きずって歩いていました」 その後、マー
アレックスは口が悪く、本当に気性が荒くてがさつだ。一言で言えば野蛮。 だけど本当の彼女はとても美しいの。 前髪を少し垂らし、長い黒髪を後ろで一つに縛っている。綺麗な形の額と切れ長の二重の目にはいつも釘付けになる。 本人に言うと怒るので黙っているけど、スタイルも魅力的だ。大きめのだぼっとした服で隠しているけど。それでもわかってしまうのよね……。 初めて出会ったときの、あの感触を思い出してしまった。思いっきりアレックスの豊満な胸を触ってしまった……。 しかも叫びながら。 あのときはなぜ、あんなにも恐ろしく見えたのか? 同じ人物とは今でも思えない。 私たちはスナカミ王国の南西地方カラバーンに住んでいる。ここ数年で大きくなってきた町なの。 アレックスと私が暮らしているのは、若者が比較的多いメープル通り。新しい安いアパートが並んでいる。 数年前に大きな工場ができて、その恩恵を受けようと問屋ができ、商店ができた。 活気のある町に必要な人材を集めようと、新しい住宅地もできたのだ。 木造にレンガを配した作りの三階建ての建物。そこに私たちは住んでいる。並んでいるアパートの中では、格安の方。 二階に私が住んでいて、その真上の三階がアレックスの部屋。 出会ったとき、アレックスは取り込んだ仕事のせいで二日間食べておらず、ほとんどおかしくなっていた。 どうせなら最高においしいもので空腹を満たしたいと思っていたそうだ。 そこが彼女の不器用なところなの。そうしたいと思ったら、そうしないと気が済まない。たとえ空腹で倒れそうでも。 そんなとき、私がありえない依頼で訪ねてしまった。アレックスは激昂した。 今、冷静になって思い出すと、料理を作っている人間に対しお願いすることではなかった。 ゴキブリをすぐ退治してくれと言ったことも、彼女が生きとし生けるものの中でゴキブリが一番嫌いだったってことも、深夜十一時に訪ねたことも、人を馬鹿にしたような依頼だったことも全て私が悪いのだ。 でもあのときは、ああするしか思い浮かばなかった。 だって、彼女はなんでも屋なのだから− 本当はなんでも屋と言うのは違っていて、彼女は探偵らしかった。 ペット探偵……らしい。 ペット探偵なんて職業があるなんてね。まあブームもあるのかしら。
あぁ……なんてこと− 目の前には錆びた包丁と、べとべとした樹脂のような、脂肪ような塊がこびりついているまな板がある。 ないまぜにされた異臭が立ち込める。 ハーブのような、泥臭いような…… 獣のような- 「さてと……」 男は椅子から立ち上がった。 男は華奢で、茶色のニット帽を深く被り、目の下に真っ黒なくまを作っている。 視線は定まらない。麻薬の常習者そのものといったところだ。背は思ったより高くない。その細い身体を隠すかのように大きめの汚い黒いシャツ着ている。 「ヒッ」 ふらふら男は近づいてきて、後ろから手を回すように肩を抱かれた。そして……。 「チッ」と舌打ちされ、耳もとで息を吐かれた。耳がザワザワして気持ち悪い。すごい汗でベタベタして、なんか埃とハーブの臭い。 「はぁ……上手くいってたのになぁ。ここからが一番重要なところなんだが!」 今度は私の首もとに顔を近づけて、息を吸われる。あぁ……気持ち悪い! 「す、すみません! あの、あの、あ……なにも、私見ていません!」 しどろもどろに私は答えた。これでは、見てしまったと告白しているようなものじゃない。私の大馬鹿! 男は私の右腕を掴んで、正面に立たせる。品定めするかのように、頭からつま先まで舐めるように見回す。 私はくせっ毛でまとまらない髪がコンプレックスだ。変な髪型の女だと思っているわ……。 いや、今はそれどころじゃないけれど。 そして、男の人差し指でつうぅと、頬を触られる。 「あんた可愛い顔してるな、お嬢ちゃん」 「お嬢ちゃんと言われるほどではー」 男は机をバシンと叩く。 「俺の目が節穴だってのかぁぁ?!」 「そんな事は……なかったことにしてください。家に帰して下さい!」 私はさっきから直立不動で動けないでいる。トイレに行きたくなってきた。 「ただじゃ済まないのはわかっているだろう? お嬢ちゃん、どうしてくれるんだ!」 「すみません!」 「早く洗わないとまな板がべとべとなっちまう!」 「どうぞ、早く洗ってください」 「あぁ?」 「すみません!」 ただ謝ることしかできない。 あー、こんなところに来るんじゃなかった! ここで殺されるのだろうか? この男が麻薬を扱っているのを知ってしまった以上、もう許してもらえないだ