お風呂場で大声を出したので、怪我をしたと思ったのだろう。ローズマリーが慌ててやってきた。
「どうなすったの?! 火傷?」 「すみません! なんでもないです。あの……ローズマリーさん、この時間まだ空いてますか?」 「え? ええ……次に来るお客様は三時間後ですから」 お風呂場の引き戸にしっかり掴まり、こちらを覗き込むローズマリー。 「私キャンセルします」 「わかっているわよ、レベッカさん。安心して、お金は取らないから」 「いいえ、キャンセルをキャンセルします!」 「はぁ?……キャンセルをキャンセル……ええと、つまりそれは……」 「予約の通りにやってください。湯船に入ってからマッサージしてもらいたいです。ごめんなさい、わがままなことばっかり言って。できますか?」 きっぱりと言った。やっぱりアレックスの言ってること偏見だもの。 「もちろん〜。お時間は平気なの? 湯船に入らないコースもあるのよ」 「大丈夫です。時間がなくてキャンセルしたわけじゃないので」 「……よござんす。予定通り行いましょう」 よござんす? 横長の浴槽は想像より浅く、寝そべって入るタイプだった。お湯が少なくて済むので、これはとても工夫されてるわ。そういえば街の大浴場にも似たのがあったかも。 しっかり体を洗ってから、浴槽に入る。枕の形をした石が、首の根元に当たってすごく気持ちがいい。 お湯を沸かしてくれていたことに心から感謝すると、ローズマリーはシルバーマウンテンの溶岩を手に入れているから大丈夫と言った。 大昔に噴火したシルバーマウンテンの溶岩は一度熱すると水に入れても三日は冷めない。高価だがお湯を作り出すことも部屋を暖かくすることもできるので、かなり重宝されていた。 お湯揺らして全身を撫でるように体をさすり、そのまま顔も埋めてしまった。 ミモザかローズ、どちらのオイルがいいか聞かれ、ミモザと答えた。 ああ……ミモザで正解だったわ。 「いい香り……アレックス、こーゆーのは嫌いそうだわね……」 ……はっ、いかんいかん! 無意識に呟いている自分が怖い。またアレックスのことを考えてた。贅沢な時間がもったいないわ。 ぬるめのお風呂から出ると、タオル地の肩が丸出しのビスチェのワンピースを着る。またこれもかわいい。 「わぁ、かわいいわ! 天使みたいね」 もう、ローズマリーさんたら営業トークが上手すぎる! でも嫌いじゃない。 マッサージが始まると、今朝のアレックスとの喧嘩のこともすぐ聞いてもらった。私の人見知りも、涙と汗で流れてくれたみたい。 でもアレックスの名前だけは言わないよう気をつけた。アレックスは街では男として暮らしているみたいだし。 それに今朝、喧嘩をしてわかったのだけど、プライベートに介入する仕事を毛嫌いしている。これは多分、同族嫌悪っていうのかな? アレックスもローズマリーさんも自分の特技を活かして生業としているもの。 アレックスは一応探偵(ペット専門)だから相手を疑ってかかるのね。だとしても腹が立つわ。 「上に住んでるその子、レベッカのことが大好きなのね」 「そんなこと……あっ……」 「痛かったかしら?」 「すごく今、腰のところ気持ちよかったんで」 「そこが凝っているのよ。力仕事をしてるわね」 「そっ……あ……野蛮なその子がここへ来てくれたら、ローズマリーさんのサロンは怪しい店じゃないってわかるのに」 「ローズマリーって呼び捨てでいいわよ。そうねぇ。今度一緒に来たらいいわ。足湯に浸かりながらお茶しましょう。お金はいらないわ」 うっ……腰から手がするりと下りて、お尻の側面から腿まで強めに押されて、びっくりした。こんなところも触るんだ。でもすごく気持ちいい。 「お尻の筋肉、かなり凝ってるから誰かにマッサージしてもらえるといいわねぇ」 「お尻……ですか? あっ……確かに気持ちいいです」 「お尻って言っても上の方。腰のすぐ下よ。その子にやってもらったら?」 「いやいや! それは私が嫌です」 アレックスにお尻を揉んでもらうなんて嫌よ……恥ずかしすぎる! 私は話を元に戻した。 「……あ、その子、ここに来てもらえるかどうか……花とか香水とか香りがするのが嫌いなんです。鼻が効き過ぎるんですかね。ハーブティーは飲んでくれるけど。あんまり好きではないみたいですけど」 「女の子なのに変わってるのねえ」 「前に花瓶に花を入れて置いたら、洒落臭いって怒りました。しゃらくさいってなんですか!? 花瓶を割ろうとしたんです。ちょっとありえないですよね」 「なにか嫌な思い出があるのかしら?」 「そんな感じではなくて……それに、私のことは世間知らずだと思ってるんです」 「心配なのねぇ。あなたかわいいもの」 「まさか! 言われたことないです。髪が変とか、服装がダサいとか言われるし。目も小さいとかなんとか」 「それは……おほほ。仲が良いのね。あら、肩と腕がパンパンだわ。なんのお仕事しているの? 聞いていいかしら?」 「……パン屋と」 「だから肩がパンパンなのね。パン屋なだけに」 「…………」 なんて反応すればいいの? 「あ、あと召使いです……」 「え? めし? 飯使う? レストランかしら?」 ローズマリーさん……天然? 見た目と違ってとってもキュート……好きになりそう。 身体中を揉みほぐされていると、気持ち良すぎて、だんだんと眠くなってきた。 完全に私は、彼女のペースにハマってしまった。気づくとビスチェはいつの間にか下りていて…………腰回りのみ布を纏っているだけ。 うつ伏せだから構わないけど、なんだか恥ずかしい………。アレックスが言うのもわかるかもしれない。確かに…………無防備。 ナナと歩いてる私……毎日の日課。 いつもの仕事の帰り道。 「サロンねぇ……雰囲気に飲まれて腕はたいしたことなかったっていうのが、一番がっかりよ。マッサージはどうなの? 上手かった?」 あれ? 私ここまでナナに言わないわ。でも確かに心で思っていた…………夢なの? ナナがうっとりとした顔で言う。 「あんまり詳しく覚えてないのよね」 「え?」 「上手く言えないわ。最後は気持ちよくって寝てたし。凝ってるところはもちろん的確に揉んでくれるわよ……もうなんだか夢のような時間よ」 ナナったら影響受けすぎ……しかも流されやすいから心配だわ……なんて思ったのに……あぁ、私も寝てるし。なんだか赤ちゃんになったみたい。ローズマリーの細くて長い指が、丁寧に全身を滑っていく。 私は孤児院育ちだけど、ローズマリーの赤ちゃんだったら毎日いい香りに包まれて幸せなんじゃないかしら? 気持ちいい。温かくて柔らかくて……ずっとこのままでいたい- 「レベッカ、起きて〜。終わりましたよ」 「うっ……んん」 ゆっくりと、なんの疑問も持たずにそのまま起き上がる。自室のベッドと勘違いした私は、それより狭くて高い位置で寝ていたため、バランスを崩した。 「あっ……」 「レベッカ!……気をつけて」 前のめりになった私を、すかさずローズマリーが前から支えてくれた。 ほっとしたのも束の間、服がずり落ちているのに気づく。裸の上半身が丸見え。胸もあらわだった。 「キャッ」 恥ずかしくて胸を隠そうしたら、さらに台から落ちそうになって、抱きつくようにローズマリーに全てを預けてしまった。 「大丈夫?……レベッカ?」 「すすす、すいません。なんだか私……」 オイルでぬるぬるの私を受け止めたから、ローズマリーさんだってぬるぬるだろう……。 うぅ……なんだかごめんなさい。 その後のことはよく覚えていない。 ***** 夜の九時- 昼間盛況な商店街でも、夕飯時を過ぎたこの時間になると早々と闇が訪れる。 商店街の奥まった路地裏にある小さな家。 扉に付けられていたウインドチャイムが吹き飛んだ。甲高い、割れるような音が響き渡り、勢いよく扉が閉まる。 「……てめえか」 血の気の多い敵意剥き出しの男……ではなく- 「物騒だな。こんな時間に鍵もかけない非常識な女は。いつも開いてんのか?」 ゆるくまとめた髪はもう解いており、胸元が大きく開いた紫のガウンを着ているローズマリーは神秘的だった。 「いいえ。きっちり閉めてます」 「今、開いていただろ?」 アレックスは鼻と口を隠した深緑のスカーフを外し、射抜くような目でローズマリーを見た。顔をしかめ浅い呼吸を繰り返す。 「相容《あいい》れない輩が、ここに突っ込んでくる気配がしたので。扉を壊されたら大変なので、たった今……鍵を開けました」 「…………」 「お噂はかねがね伺っております」 慇懃無礼に言うと、ローズマリーは丁寧にお辞儀をした。 アレックスは逆上して、ローズマリーにさらに近づいた。 「本性を出せ」 荒く息を吐き、ローズマリーに詰め寄る。 「本性もなにもない。私はいつも通り。悲しいのはお客様から頂いたウインドウチャイムが吹き飛んで壊れたこと」 「知り合いがここに来たんだが! ついさっき目を覚ました。ほぼ一日中寝てたんだぞ!」 「レベッカね。彼女、脱水症状になったの。水や紅茶を出しながら施術するのだけれど、実はハプニングがあったのよ。カウンセリングとお茶を飛ばして、すぐ足湯をしたのよね」 「何を言ってる? 薬を盛ったんだろ? 正直に言えよ」 ローズマリーの笑顔が消えた。凍りつくような瞳。 「お黙りなさいな。言っていいことと悪いことがある」 「なんだと? てめえは客を病院送りにするのか?」 「レベッカは水分を取ってくつろいでもらっただけ。逆に体の悪いところを発見し、病院を勧めたお客様は今まで何人もいたけどね。彼女が脱水症状になった原因はあなたにもある。アレックスさん」 アレックスはローズマリーのガウンの襟を荒々しく掴んだ。 「ここで! 具合が悪くなったんだぞ!」 怒りで震えるアレックス。アレックスをじっと見つめるローズマリー。 「彼女はここに来る前も、ここに来てからも隠れて泣いていた。私が思っていた以上にね。相当水分を使ったのね……あなたに拒絶されたからよ」 「拒絶? お前になにがわかる?」 吐き捨てるように言うと、アレックスはローズマリーから手を離した。 「サロンに行くなら、召使いはいらないと言ったのでしょ」 舌打ちをするアレックス。 「あいつ、ベラベラと! 前にも言ったことがある。使えない召使いならいらないと」 「どれだけ酷いことを言っているかおわかり? レベッカはあなたに気を使ってとても疲れているわ……あなたのこと慕っているのよ」 「……お前は何様だ?」 「町の女の子たちを幸せにしたいだけ。私は人を癒す力があるのよ。それを女性たちに使いたい。男たちに翻弄され、女は身も心もボロボロだ」 「……お前…………魔女だな。最近北の国で、魔女が脱走しているだろ?」 ローズマリーはクスッと笑った。 「世間知らずなのはお前のようだね……餓鬼《ガキ》は早く帰って眠りなさい」 「なんだと!」 声を荒げたアレックスはローズマリーに殴りかかろうとした。そのとき- 「痛みを感じる間もなく死んだわ」 アレックスは一瞬で硬直した。じっとローズマリーを見つめる。 「あなたの大事な…………恋人? 恨んでいないわ。だから許しなさい」 「なっ……」 アレックスは後退り、ローズマリーから距離を取った。 「許すのよ…………あなた自身を」 諭すような優しい声。誰にも話したことがない事実を告げられ、アレックスは愕然とした。 最近は自分でも忘れていたことだった。 「お前……何者だ?」 「こっちの台詞。アレックス……お前羽振りがいいようね。先ほど壊したウインドチャイムのお金……明日届けなさいな」 「くっ」 アレックスは深緑のスカーフを口元に戻し、逃げるようにローズマリーのサロンから退散した。 「またのお越しをお待ちしております」 ローズマリーは余裕の微笑みを返した。ああ、本当にもうダメなんだ。嫌われたわね。 何も始まってないのに……私が終わらせちゃった。 自分がこんな残酷な人間て知らなかった。アレックスのこと、人を殺せるでしょなんて言ったのよ。酷い。許してもらえないわね。 でもこれは……これは言わせてもらおう。 「わ、わたし……落ち込んだのよ。普通女同士の旅は一つの部屋よ。なのに確認もしないで部屋を別にされるなんて…………」 「…………」 「そんなに私のこと嫌いなんだって思ったんだよっ!」 突然、アレックスは私を抱きしめ、心臓が止まりそうになった。アレックスの声は震えていた。 「嫌いな奴と一緒に船になんか乗れないし、飯も食べない。口も聞かない。そんなに器用じゃない。レベッカ、お前がいなくなったら困る」 私は声を殺して泣いている。アレックスの柔らかい胸に顔を埋めて。恥ずかしいけど、もう仕方なかった。 「わかっただろ? 部屋を別にしたのは、お前のためだ。無法島に来たら、この問題は避けられない」 「狼になっちゃうから? 夜中の12時に? ……動物だから鼻や耳がいいの?」 アレックスは無言だった。 さっきまでは寒いと思っていたのに、アレックスの体温も伝わって、甲板の上は夜風が気持ちよく感じた。 「ローズマリーは知ってるのね」 嫉妬ではない。私は安堵して彼女の名前を出したの。前みたいなやきもちじゃない。アレックスの理解者がいてよかった。心からそう思ったの。 「まあな。あいつは人の感情の色とか、いろいろわかるらしい。だから早い段階であたしがおかしいことに気づいた」 あぁ……ローズマリーって、やっぱり普通じゃないのね。 「怪我をしたときは、狼の姿でローズマリーの家に行った。さすがにあの女でも、ひえぇぇぇって驚いてた」 私は吹き出してしまった。想像がつくわ。 「……あの狼がアレックスなら怖くないわ。私のこと嫌いで避けてたわけじゃないなら、よかった」 「……ありがとうな」 珍しい。否定しないのは認めたと言うこと。アレックスは私の髪をくしゃっと触る。いつもの癖。潮風でくせっ毛はさらにくしゃってなってるし、ベタついているけど。 「ありがとうなんて言えるのね……あの男の子、ジョーイを探すのはでも大変だったでしょ? いくら嗅覚が優れているからって、あんな広い山で
「そう。そうなの、危機感ゼロよね」 そしてまた沈黙。 波の音が二人の間を隔てていた。アレックスはなにも言わない。長い髪はなす術もなく潮風に持っていかれて顔にかかったまま。 私は続ける。 「あの宿、転落防止で開かない窓が多いのよ……部屋もね。窓が開かないから無理やり割ったのね。そして二階から飛び降りた。狼だって足を痛めるかもね。男にも蹴られていたし」 「……な、なんのことだ」 アレックスの足は少し落ち着きなく動き始めた。 「殺そうと思えば簡単に喉とか噛めたんじゃないのって……」 酷いわ。 「怪我させないように手加減をしたんでしょ?本当はもっと……」 私、すごい酷いこと言ってる。声が上擦っていた。 「あんなやつら噛み殺せばよかったのに!」 私は叫んでいた。ああ……ダメだ……。 でもやめられなかった。 「だから……蹴られてしまったのよ。本当の狼なら私たち大怪我……死んでいたかも」 私は泣いていた。アレックスは黙って私を見つめていた。 「アレックス! 何か言ってちょうだい」 「まぁ……あぁ……不幸中の幸いとしか言いようがないな」 「なによ、それ。前からおかしいと思ってた。真夜中は絶対に私を部屋に入れないし。私がそばにいるときは追い出していたわ! 初めて会った夜もそう」 初めて会った夜は、なにからなにまで狂ってた。でもなぜか今は愛おしいとさえ思う。 「アレックスの部屋の一番奥、たまたま鍵が外れてて扉が開いて見えちゃったの。一度だけ」 私はここで大きく息を吸った。言うべきか一瞬迷った。今なら冗談だと、全部笑い飛ばせる? 抱きついて、嘘よ、ごめんごめんて……。 いや……。もうそれは十分かな。 「奥の部屋、大きな檻があった。あれは自分用なのよね? 動物の毛があちこち床に落ちているのだって……ペット探偵をしているからじゃなくて-」 「わかったよ」 八百屋の子が扉を開けようとして、あのとき開けるなと怒鳴ったわ。すごく怖かった。 「なにが? なにがわかったの?」 「もういい」 アレックスの抑揚のない声。なんにも興味がないときの声だった。 ああ……終わった。 もう私たち、ダメなのかもしれない。
無法島が小さくなっていく。私は黙ってその場から離れた。 「おい、レベッカ。具合悪いのか?」 アレックスが私の腕を強く掴んだ。彼女は眉間にしわを寄せ、困った顔をしている。その表情は嫌いじゃない。 私は無表情のまま、視線をそらした。 「風に当たってくる。船酔いしたみたい」 「はぁ? 今、出航したんだぞ? もう船酔い? まぁ…………あたしは休憩所で寝てくるからな」 「うん……ゆっくりしてきて」 一人甲板に残って、真っ暗な海を眺めていた。いろいろ楽しかったわ、とても。マリアたちのショーもそれはそれは素晴らしかった。ドキドキして興奮するような歌とダンス。 だけど聞いてはいけないこともマリアから聞いてしまった……何か面白かもしれない。 まぁ、その件はカルバーンに着いてから考えよう。 今はもっと大事なことがあるの。これからのアレックスと私のことよ。 ***** 無法島が見えなくなり、しばらく経った。真っ暗な海の上。なにも音がしないより、少し荒れた波の音が私にはちょうどいい。心のざわざわも聞こえなくなりそうで。 船に揺られながら、私はアレックスに聞かなくちゃいけない。 アレックスが暫くして甲板に上がってきた。 「レベッカ……お前、まだ顔色が悪いな。大丈夫か?」 「あぁ、うん。大丈夫よ」 そう言われて、確かに体調は優れないのだろうと思った。でも頭はすごくクリアだった。 「アレックス、大事な話があるの」 聞くなら今しかない。時間が経ったら、アパートに戻ったら、うやむやになって全て曖昧でわからなくなってしまう。アレックスは黙って私の目の前に立った。 「ねえ、アレックスは疲れてないの?」 「あぁ……疲れてるよ。ちょっと寝たけどな。最悪だな。ほとんどただ働きじゃないか。しかもおかしなことばっか」 「そうね……足は平気?」 「あぁ、まあな。もう治った」 「ありがとうね、アレックス。悪い観光客二人から守ってくれて」 「ああ……」 アレックスは返事をした後、はっとして、無言になった。アレックスの失態なんて本当に珍しい。よほど疲れが溜まってるのね。 私はふっと笑った。アレックスは片目をつぶって顔をしかめた。分が悪いと足をガタガタさせたり、片目をつぶるわよね。 私が優位に立つのはこのときが
次の日、グエンのお葬式は厳かというよりは、お祭りのように盛大に広場で行われた。 人々は、グエンが落下した場所に(違う場所でとっくに死んでいるのに)花を一輪ずつ置いて、手を合わせた。 今まで忘れ去られていて、誰も鳴らさなかった鐘楼の鐘を、黙祷するようにみんなが鳴らしていった。 私も落ち着いた頃に、一人で鐘楼に登って鐘を鳴らした。鐘楼から見下ろす街並みや、夕陽はとても美しかった。 ずっと見ていたかったけど、後ろから観光客が何人か上ってきていたから、私は長居はせずにすぐ降りた。 よくわからない相手に同情し、人々は悲しみを分かち合い、なんだか感動すらしている。悲劇の舞台を観劇した後のようにー 知らない方がいいことってたくさんあるんだわ……。 結局この日も、無法島に私たちは泊まることにした。アレックスは、ヌーンブリッジのある組織の悪事をいろいろ知っていて、それを料理長やマリアに詳しく教えていた。きっと無法島にとって役に立つのね。 私は厨房でパンを作る手伝いをしたり、美味しく作るコツを教えたりもした。そのとき無法島の噂話もいろいろ聞こえてしまった。 ノーマン・ダークが本当はこの世にいないことなど。数年前に病気になってもう亡くなっていたの。それを知られたら周辺の街がどうするかわかっているのね。 無法島はノーマン・ダークに守られているのよ。それを街の人達もよくわかっているの。 ノーマンを演じていたのは、大衆食堂で暴れた人だった。彼は本当は無法島の人間だったの。これには驚いたわ。 ***** 「最終便、出港します!」 船長が呼びかけ、汽笛が鳴った。 アレックスが叫ぶ。 「ちゃんと給料、本島に持ってこい! カラバーンのメープル通りだぞ!」 「はいはい、まぁ、気が向いたらなぁ」 ウインクするグエン。 「ふざけるなテメェ! どれだけ働いたと思ってんだよ。グエンの金の亡者! くたばれよ」 港に残ったグエンや街の人々は、満面の笑みで手を振っている。マリアや料理長は忙しくて来れなかったのは少し寂しかった。 「アレックスー! また来いよー」 「二度と来るか、お前はアラバマの二番弟子だ! あたしには一生、敵わないんだぞ!」 アレックスは大声で叫んでいる。私は精一杯の笑顔で、みんなを眺めた。
「離してください」 できるだけ低い声でゆっくりと言った。 「黙っててやるからさ、こっちに来いよ。明日になったら一緒にヌーンブリッジに帰ろうや」 「ふーん。よく見ると、可愛いなぁ。俺たちの部屋に来なよ」 かなりまずいわ。 「結構です!」 後ろからも小さめの男に腕を掴まれる。 「いい土産ができそうだぜ。最近パッとしないからな」 「やめてよ。人を呼ぶわ」 「誰が来るってぇ?」 「無法島には保安部隊はいないぜぇ……」 「ノーマンの部下は今夜はいねぇぞ。外出禁止って広場でお達しが出ただろ? 人が死んでんのに……規律を守らないと、こーなるんだよぉ」 なに自分たちに都合がいいこと言ってんのよっ……ギラギラした目が間近に迫ってきて、顔を掴まれる。 やめて……。 そのとき、ガラスが割れる音が響き、目の前に大きな獣が現れた。 真っ赤な光る目ー あのときの獣! これ以上ないピンチの上に、獣に食い殺されるなんて運が悪すぎる。私ってそんなに悪いことした? そりゃ、外に出た私がいけないんだけども! 「なっ……野犬か?」 「違う……こいつ、狼だ」 男二人が私を盾にする。卑劣極まりないんだけど! ……て言うか、これ狼? こんなに大きいの? 「ちょっ、……卑怯者!」 「お前が食われろ!」 「男のくせに、女を盾にするの?」 私も負けじと言い返す。こんな所で死にたくない! 「離して……バラバラに逃げましょう!」 提案したが、二人とも離してくれない。 「う、うるせえ!」 唸り声を上げ、狼は大きな口を開けて私たちに飛びかかる。 ひええええぇ! 狼はなぜか私を飛び越え、大柄の男の腕に噛みついた。男は叫んで、足で狼を蹴り飛ばす。 狼は一旦離れ距離を取ると、唸りながら私たちを赤い目で睨んでくる。 ああ……今まで生きてきて、今が一番ピンチだってば!アレックスのことが頭をよぎる。 もう会えないかもしれない……。 狼はもう一人の小柄な男の足に噛みついた。男は足を振り解こうとするけど、狼は離れない。 「い、痛えー! た、た助けてくれ!」 「くそっ!」 大柄の男が怖がりながらも、また狼に蹴りを入れた。 狼が足を離した瞬間、男二人はなにか叫びながら逃げて行った。
ゆっくりとお湯に浸かりながら今日一日のことを思い返した。このまま寝ちゃいそう……。 アレックスは鐘楼から飛んだり、屋根の上では危なっかしく戦う真似をしたり、男の死体も運んでいる。さすがにゆっくりしたいわよね。 私が協力したことと言えば、広場の観客に混ざって、人々を誘導すること。 『キャー、見て! あれを見て!』 と、鐘楼を指差した女……あれは私なの。大人も子供も、広場にいた全員が煙突のような高い鐘楼を見上げたわ。 他にも、なんて野蛮な!獣ー!とか、キャーやめてー、危ない!など、かなり煽ったの。 そうするようにグエンに言われたから。屋根の上での演技は危なっかしくて、アレックスが落ちるんじゃないかと心配で、ハラハラして本心で叫んでいたけどね。 それにつられて皆もどんどん声を出した。あとはもう言わずもがな……どんどん盛り上がっていった。 広場を後にするときは混乱がないように、早く帰りましょーとか、こっちが空いてますよなんて言ったわ。 話し声が聞こえた。 広場で手配書と同じ顔のグエンが落ちてきて(本物のグエンではないけど)近くで見た見物客は寒気がしたそう。しかもノーマンが触ったら落ちた男は涙を流したって。 ノーマンが、男の体から出てきた魂を奪ったように見えたって得意げに話していて、みんな興味津々に聞いていたわ。まるで怪談話みたいね。 多分なんだけど、あの死体は半分凍っていたから、運んでいるときも冷気が漂って寒かったの。それに人間が触れば体温で、男の体に付いていた氷の粒が水蒸気になって涙に見えたのかもしれないわね。 なんて……そんな科学者みたいなことを言っても、広場の人たちは、あの場で死んだと思ってるし、怪奇現象としか思えなかったわよね……。 それにしても女の子の二人旅って、寝るときまで楽しくおしゃべりするもんだと思ってた。 そういやアレックスと夜を明かしたことはない。まぁ、アレックスはベラベラ語り合うなんて嫌だろうけど……。 ローズマリーとだったら? お泊まり会は開催されたのかな? そんなことを考えながら、湯船から出る。 一人で部屋にいても、お酒が飲みたいわけでもなく、窓から夜の通りをぼうっと眺めていた。 ガス灯の横に、高そうな書類鞄が置きっぱなしなのが見えた。誰だろう……忘れ物かしら? 今日は夕方